船岡山合戦が起こり、戦国時代へと向かった。 |
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2016年 11月 14日
室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国、大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で1511年09月25日(永正08年08月23日)に、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦いとして、船岡山合戦が起こった。 <a href="http://time-az.com/main/detail/57639">http://time-az.com/main/detail/57639</a> 船岡山は、標高約112m、東西約200m、南北約100mの孤立丘陵で、その地形が船に似ていることから古来船岡と呼ばれ、頂上からの眺望はよく京の町、特に西陣一帯が見渡せる景勝地である。 1507(永正4年)より分裂闘争にまで発展した細川京兆家(管領家)の内訌は、それのみで止まらず、将軍家における政争とも絡み合って複雑な様相を呈していた。 しかし澄元と高国の蜜月は長くは続かず、1508年05月(永正05年4月)に至って高国が澄元を圧迫して近江国に逐い、さらには大内義興の後援を得て上洛の途に着いていた前将軍足利義稙を再び将軍位に就け、自らが管領として幕政の実権を握ったのである。 復権を企図する澄元は、1509年(永正06年)には高国勢力の充満する畿内を抜けて勢力基盤である阿波国へと帰還し、1511年(永正8年)になると、如意ヶ嶽の合戦で、播磨国の赤松義村と結んで細川尚春を添えて摂津国へと侵攻させ、和泉国方面からは同じく細川一族の細川政賢・細川元常の軍勢をもって衝かせたのである。 摂津国の戦線では細川尚春が高国方の鷹尾城主・瓦林政頼(河原林正頼)の迎撃を受けて、芦屋河原の合戦では大敗を喫したが、その直後には、鷹尾城の戦いで赤松義村が鷹尾城を攻略した。和泉国戦線でも1511年08月(永正08年07月)に堺の南方から上陸した澄元勢優位に推移し、1511年09月17日(永正08年08月15日)に京都をも陥れたのである。 しかしこの前日の1511年09月16日(永正08年08月14日)に、澄元が奉じる足利義澄は、復位を目前にしながらも近江国岡山城で死没した。 澄元勢の勢いに押された細川高国・足利義稙・大内義興らは一旦、高国の守護領国である丹波国に逃れたが、2万とも2万5千ともいわれる軍勢を率いて京都に戻り、洛西の高尾に着陣した。 対する細川澄元・政賢らは高国勢の来攻に備えて船岡山に防塁を築いて対応した。 船岡山の緯度、経度 35° 2'20.30"N 135°44'30.33"E
by jiten4ujp
| 2016-11-14 22:41
| 戦争と平和
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