二・二六事件に繋がった相沢事件が起った。 |
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2016年 09月 26日
皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が1935年08月12日に、統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した。 <a href="http://time-az.com/main/detail/57055">http://time-az.com/main/detail/57055</a> この事件の発端は、統制派により、皇道派の磯部浅一と村中孝次の停職の処分に憤激ことが動機であった。 日本陸軍では、国家総力戦を戦い抜くため、統制経済による高度国防国家への国家改造を目指す統制派が、革新派の青年将校や皇道派と対立し、1934年11月の士官学校事件、1935年7月の皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭により、反対派を一掃しようとした。 1934年12月31日の夜、士官学校事件の背後に永田鉄山がいると判断した。 1935年06月、林陸相と永田軍務局長が満洲・朝鮮への視察旅行中、磯部浅一、村中孝次、河野寿は永田を暗殺しようとした。 1935年08月12日午前9時30分頃陸軍省に来て、相沢が一番尊敬していた山岡重厚整備局長を訪ね、談話中に給仕を通して永田少将の在室を確かめた後、午前9時45分頃、軍務局長室に入り、直ちに軍刀を抜いて永田に切りかかり、次いで刺突を加えて殺害した。 決行後整備局長室に戻って「永田に天誅を加えた」と告げた。 軍法会議は勅許奏請の手続きを執らなければならない段階となり、軍中央部も反対することはできなくなった。ところが1936年02月26日払暁に二・二六事件が勃発した。 二・二六事件により一時中断されたが、1936年04月22日に第11回公判を再開した。 裁判長は判士、陸軍少将の内藤正一に変更され、裁判官も変更があった。 また、弁護人も菅原裕弁護士と角岡知良弁護士に変更となった。 裁判長は公開停止を宣言し、一般公衆の退廷を命じた。 1936年05月01日の第14回公判終了まで非公開のままで、証拠申請はことごとく却下された。 1936年05月07日死刑の判決が言い渡された。翌1936年05月08日に上告したが、1936年05月06月30日上告棄却が言い渡され、死刑判決が確定した。 この事件は、被害者側の名前から、永田事件とも言われる。 1936-02-26---2.26事件が発生した。 1935-08-12---二・二六事件に繋がった相沢事件が起った。 1882-08-05---太政官布告「戒厳令」公布。
by jiten4ujp
| 2016-09-26 23:36
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