マインツ共和国がプロセイン軍に降伏し、再征服された。 |
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しかし、この頃、フランス軍とプロセイン軍の板挟みになり、極めて短期間のうちに終わった。
占領下にあって、絶えずマインでは、流通語がことなり、フランス占領下では、マインツではなく、フランス語のマイオンスと呼ばれていた。
フランス革命の前から、ドイツ各地には啓蒙主義者のサークルがつくられ、活発に活動していた。
マインツでは、フォルスター、ヴェーデキント、ホーフマン、メッターニヒらが、先の様々な結社で繋がり、啓蒙活動を特にマインツ大学は活動家の中心に行っていた。
フランス革命が始まると、その影響を受けて政治的活動が盛んになり、検閲が厳しくなり、密告が奨励された。マインツでも、革命後カトリック教会のヒエラルキーではマインツ大司教はドイツにおける最高位の聖職者(primas Germaniae)であり、アルプス以北でのローマ教皇の代理人であったマインツ選帝侯(Kurfürstentum Mainz または Kurmainz)であったマインツ大司教(Erzbistum Mainz)の姿勢が厳しくなると活動は困難になり、一部は直ぐ隣のフランスに逃亡した。
マインツ大司教は、司教座の中でも、ローマ大司教座を除いて唯一、「聖」を付して「マインツ聖座」(Sancta Sedes Moguntina)と呼ばれていた。
フランス革命後、ライン左岸の農村地帯では暴動、争議が頻発し、都市部のマインツでもフランスに呼応しようとする者たちがいた。
当時、フランスに逃亡した革命家は、フランスとドイツを行き来してマインツには、活発に連絡があった。
特に、グーテンベルグも亡命したことがあるストラスブールでは、ドイツ出身で、当地のジャコバン・クラブの主要メンバーであったシュナイダー(Schneider)が亡命ドイツ人の組織化を図っており、マインツをはじめ各所の都市に彼らを送り返して活動を支援した。
フランス軍の侵攻により、1792年10月21日に、マインツはフランス制圧下となった。
選帝侯ら主だった者たちは逃亡した。
1792年10月23日に、選帝侯の城館で、フランス軍指揮官アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ(Adam Philippe de Custine)将軍の下、マインツ・ジャコバン・クラブが結成された。
1792年11月末にはクラブの会員が500人に増え、専制的な記念碑が壊され、自由の木が植えられた。
1793年02月24日に、フランスの援助の下にライン左岸国民公会の選挙が行われた。
しかし、この選挙に対して、住民の反応は鈍く、反発的で農村地域では選挙反対の暴動まで発生した。
マインツ共和国は反革命軍の占領下にあった。
フランス軍とマインツ共和国軍は抗戦していたが、マインツ共和国は救援の見込みがなく、1793年07月26日に降伏した。