佐賀藩医楢林宗建が、日本で初めて牛痘法の種痘に成功した。 |
牛痘法をシーボルトに直接教わった長崎在住の佐賀藩医楢林宗建が、1849年09月05日(嘉永2年7月19日)に日本で初めて種痘に成功している。
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長崎で痘瘡牛の痂皮を用いて成功した楢林宗建から、シーボルトの鳴滝塾であった京都の日野鼎哉のもとに種痘成功の報せと、8粒の痘痂が届いた。
日野鼎哉は楢林宗建の痘痂8粒の中、7粒を7人の孫に植えつけた。
発痘した者は一人も居なかった。
落胆の底から気持をたて直して日野鼎哉は、残りの1粒を弟子の桐山元中の息子万次郎に植えつけた。
7日目、万次郎の腕からわずかににじみ出ている膿を鼎哉の孫の3歳になる朔太郎と、元中の姪にあたる8歳の女児に植えつけた。
そして7日目、2人の子供の腕からすくいとった液を、16歳になる鼎哉の娘の腕にすりつけて種つぎをした。
日本の全土に天然痘が蔓延し、人々の悲惨な姿を目の当りにしてきた鼎哉と良策師弟は、外国では種痘を行って天然痘の悲劇を防いでいることを知り、日本にも種痘を普及させねばならないと一念発起した。それには第一の難関が痘苗の入手であった。
丁度その頃、笠原良策が日野鼎哉のもとを訪れた。
彼等は手をとり合い、肩を震わせ、「花が開き申したぞ、遂に花が開き申した」と歓喜した。鼎哉と良策は役所の許可を得て、京都新町三条北に種痘所を構え、種痘をひろめる態勢を整えた。
長崎から京都の鼎哉のもとへ痘痂が届いた報せは国内に届いていた。大阪の緒方洪庵もそのことを知り、自宅に近い道修町4丁目で開業している日野鼎哉の弟日野葛民に同行を願って日野鼎哉を訪れ、分苗を懇請した。1849年(嘉永2年)11月01日のことである。鼎哉と良策は、1849年11月06日、分苗のために一人の種痘をおえた子供を連れて大阪に赴いた。良策は大阪に於ける「分苗の儀式」を「白神記」に克明に記している。