ペリー提督が久里浜に上陸。 |
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1854年3月31日に日米(日本国米利堅合衆国)和親条約(Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan)を江戸幕府と米国が締結した。
日米和親条約は、日本語、英語、漢文、オランダ語で書かれて、ペリー提督は、ニューヨーク州トロイのRPI(Rensselaer Polytechnic Institute/レンセラー工科大学)で学んだ漢文担当の主席通訳官サミュエル・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams/衛三畏/1812年 - 1884)と、上海で雇ったオランダ語通訳アントン・ポートマン(Anton L. C. Portman)を乗艦させていた。
サミュエル・ウィリアムズは、1837年に日本人漂流民音吉、庄蔵、寿三郎ら7人を送還のためアメリカ商船モリソン(Morrison Incident)号に乗船して鹿児島湾、浦賀沖に現れたが、当時日本では異国船打払令が出されており、沿岸から、小田原藩と川越藩に砲撃されたため日本の港への入港は出来なかった。そのとき日本人漂流者から日本語を学び、マタイ伝の日本語翻訳を行ったり、日本語語彙表を作成するなど日本語の知識も有していた。
ペリーはウィリアムズを介しての日本語での交渉も考えていたが、ウィリアムズはこれを辞退したため、口頭での交渉は日米双方のオランダ語通訳を介して行われた。
ところが、ウィリアムズ自身は、日本側の発言はほとんど理解できたと述べているが、ウィリアムズは日米和親条約の漢文版に署名している。
どこらまで、お互いが理解していたかはわからないが、映画「未知との遭遇」に近かったことだろう。