日本初の演説会が行われた。 |
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「演説」という言葉は慶応義塾を創設した福澤諭吉が仏教語で、真理や道理などをわかりやすく解き明かすという意味がある「ニルデーシャ(निर्देश)」をもとに作ったもので、この日の演説で福澤は「日本が欧米と対等の立場に立つ為には演説の力を附けることが必要」と説いた。
福澤諭吉の「学問のすゝめ」の十二編に「演説」では英語にて「スピイチ」と言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思うところを人に伝うるの法なり。」述べている。
福澤諭吉の「学問のすゝめ」は最初、福澤諭吉の出身地である中津(大分県中津)の友人のために作ったものであった。
その内容から、多くの人が読めるように出版を勧められ、1872(明治5)年に慶応義塾で活字版を使って初版を出版している。
また、1897(明治30)年に刊行された「福澤全集緒言」の中で、旧中津藩で上申に用いられていた「演舌書」という文書があり、「舌」という言葉があまりにも俗なので「説」という字に改めたと述べている。
演説の語源・由来として、漢語の「演説」は、「演」が「講釈する」、「説」が「道理・教義・意義」で、道理や意義を述べ解くことであると伝えている。
江戸時代末期、蘭和辞書『和蘭字彙』で「redevoering(スピーチの意味)」の訳語として、「演説」が扱われてはいるが、その時点では一般化されていないので、福沢諭吉の造語から広まったともいえる。
2015年05月14日に公開された「三田演説館(福澤諭吉と塾生の演説発祥の地)」では、福澤諭吉と『演説』との最初のきっかけは、演説の方法の紹介で、具体的に会議を起こすための集会の手続きの手引き書にあたる『会議弁』というものであったと言っている。
1873(明治6)年の春から夏にかけての頃に、小幡篤次郎と小泉信吉が共著で書いた原書を福澤や慶應義塾の人々が目にしたことから始まりであった。
この原書に従って、福澤を始め、慶応義塾の有志が週に2回ほど福澤の私邸や教員宅に集まり、ある時はテーマを宿題として与え、ある時はその場で決めて持論を述べ合ったり、別々の意見に別れて「可決」「否決」の議論するなどして訓練が重ねられ、翌年の1874(明治7)年に、正式に『会議弁』が刊行されたと報告している。
三田演説館の緯度、経度
35°38'53.9"N 139°44'32.2"E
または、
35.648306, 139.742278