安政の大獄がはじまった。 |
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2017年 02月 21日
「安政の大獄」という言葉は、歴史などで習ったが、ではいつからかとなると、江戸幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝らが、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、将軍継嗣を徳川家茂に決定したことがきっかけで、これらに反対する者を弾圧した事件の総称である。 弾圧されたのは、尊皇攘夷や一橋派の大名、公卿、志士らで、100人以上であったと言われている。 処罰を行なったのは、第13代将軍徳川家定(1824 - 1858年)の命令であったと言われているが、はじまるとほぼ同時1858年08月14日(安政05年07月06日)に死亡している。 慶篤の登城停止と、徳川慶勝や松平慶永、徳川斉昭、一橋慶喜に対する隠居謹慎の命令は、1858年08月13日(安政05年07月05日)であった。 では。最初は何かと言えば、尊攘派の小浜藩士梅田雲濱(Unpin Umeda/1818 - 1859)を京都で捕縛したことがきっかけであったという話がある。 プチャーチン(エフィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン/Евфимий(Ефим ) Васильевич Путятин/Jevfimij Vasil'jevich Putjatin/1803 - 1883)の艦隊ディアナ(Diana)号が大坂湾に侵入した報せを聞いた大和の十津川郷士たちは、雲浜を首謀としてロシア艦の打ち払いを謀っている。 これが時の大老井伊直弼による「安政の大獄」で摘発され、1858年09月07日に2人目の逮捕者となった。 捕縛後は京都から江戸に送られたが、取調べでも箒尻で何度も打たれる拷問を受けたが、何一つ口を割らないで、1859年(安政6年)に獄死している。 ところが、これで治らないのが現実で、ペリー艦隊が1854年06月(嘉永07年06月)に帰国して6カ月後の1854年10月15日に、プチャーチンは新鋭船ディアナ号に乗って、下田に来航した。 ディアナ号は、3本マスト、2,000トン、52門の大砲と488名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦であった。 日米和親条約の締結した後、1週間ほど遅れて、日本側全権大目付の筒井政憲と勘定奉行の川路聖謨が、応接係として急遽下田に派遣されてきた。 ロシア側との事前交渉がもたれた後に第1回日露交渉が11月03日福泉寺で開かれた。 ところが、第2回目の日露交渉を約束して別れた次の日、「安政の大津波」が起こった。 1854年12月23日嘉永07年11月04日午前10時ころ、突然大地震とともに大津波が下田湾を襲った。 地震は2回、津波は幾度となく押し寄せ、町内の家屋はほとんど流失倒壊し、溺死者等122人、戸数875戸のうち841戸が流失全壊、30戸が半壊、無事の家はわずかに4戸しか残っていなかった。 この津波により下田の町は壊滅状態の大惨事でした。湾内が空になるほど潮のひいた後、停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ、42回転したとも伝えられている。 マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出る惨状であった。このような災害の中、ロシア側は、その日の夕方、津波見舞いに副官ポシェートと医師を同行させ、傷病者の手当ての協力を申し出ている。この厚意に応接係村垣範正はいたく感服したと伝えられている。
by jiten4ujp
| 2017-02-21 12:01
| 戦争と平和
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