聖武天皇の御代玄昉が、僧正とし、紫袈裟を授ける。 |
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2016年 11月 29日
大和国の人で幼い頃から仏法を学び、とても賢かった聖武天皇の御代であった玄昉(? - 746)が、717年(養老元年)に、唐に渡り、知周法相を師として学び、多くの経典を持ち帰った。 当時、唐の皇帝であった玄宗は玄昉を尊び、三位を授けて紫の袈裟をつけさせた。 唐の国に20年いたが、735年(天平7年)に、遣唐使の多治比の真人広成という人と共に帰国した。 経論五千巻や仏像を持ち帰り、736年(天平8年)に朝廷に仕えて、737年09月24日(天平09年08月22日)に僧正とし、紫袈裟を授けた。 聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させ賜物をうけ、后である光明皇后が特にこの玄昉を尊んで帰依し、寵愛した。 聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人々はその寵愛ぶりを見て、あれこれと良からぬ噂をした。 その頃、大臣の不比等の孫で、家柄も良く品格もあったので世評も高かった式部卿の宇合の子である藤原広嗣が、玄昉の話をきき、太宰府から「天皇の后が僧玄昉を寵愛なさっていることが世間の悪い噂になっております。おやめになるように」と奏上し、玄昉を排除しようと九州で兵を起こした。 天皇はこの奏上に対し、「広嗣がどういうわけで一国の政に口を出すのだ。こんな男は国の禍になるにちがいない」として、誅伐のため、勇猛心もあり、智謀に長けていることで知られる御手代東を召し出して「ただちに広嗣を討ち取れ」と命じたと伝えられている。 玄昉の墓は、福岡県太宰府市、観世音寺旧境内にある。玄昉の頭を葬ったされる頭塔は奈良にある。霊のほうは松浦宮に祀られたことになっている。
by jiten4ujp
| 2016-11-29 20:37
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