慶長遣欧使節の支倉常長が帰国。 |
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2016年 11月 18日
伊達政宗が貿易を期待して、フランシスコ会宣教師(Ordo Fratrum Minorum/Order of Friars Minor)ルイス・ソテロ(Luis Sotelo/1574 - 1624)を正使、支倉常長(Tsunenaga hasekura/1571 - 1622)を副使として、スペインに慶長遣欧使節を1613年12月09日(慶長18年10月28日)に、現在の宮城県月の浦から、スペイン人提督セバスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaíno/1548 - 1624)に協力させて、仙台藩陸奥国領内で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ(San Juan Bautista)号(元は「伊達丸」と呼ばれていたとの説もある)に乗って180余人が出航し、太平洋を横断して、スペインの植民地であった「ノビスパニヤ(Nueva Espana)」といって、現在のメキシコを目指した。 <a href="http://time-az.com/main/detail/57685">http://time-az.com/main/detail/57685</a> 使節団が翌1614年3月5日(慶長19年01月25日)にアカプルコ(Acapulco)に上陸して、徒歩や馬でメキシコ市に移った時、使節団はスペインの副王グアタルカサール候に謁見した。その後、前途揚々で、1614年6月30日(慶長19年05月23日)にはメキシコ市を出航して、いよいよスペイン本国へ向かった。スペインでは熱烈な歓迎を受け、マドリードではキリスト教への洗礼の儀式までした。 スペイン国王フェリペ3世にも謁見し、さらに日を置いてヨーロッパに足跡を残して、バチカンではローマ教皇にも謁見した。使節団一向は、ヨーロッパ諸国の権力者たちとの直接の謁見を実現している。 しかし、政宗の希望は「通商」だったことから、これを了承してもらわないと、支倉常長としても目的を達したことにはならない。 そして、使節団にも帰国を命じたが、常長とて役目を果たさずに帰れない。ロレト修道院に一年以上も留まり、貧窮生活を送りながら、さんざん返事をもらえるよう嘆願したが、ついに返事はもらえず、1617年には国外追放処分となる。 まず、政宗の使節派遣を支援していたといわれる大御所徳川家康が亡くなっていた。 さらに、禁教令は強化されて、しかも海外貿易にも制限が設けられていたのである。 政宗は、当然この幕府の方針で問題になった。 説得には実に1年半の月日がかかったらしく、常長がマニラからの帰国を許されたのは1620年(元和06年)になってからであった。常長は1620年09月20日(元和06年08月24日)に帰国してから、幕府の禁教令と政宗のキリシタン弾圧のせいで息を潜めて生活し、帰国の2年後に没した。 じつは、政宗が常長を助けようとしたのではなく、自分の保身のためであったと言われてうる。 宮城県月の浦の緯度、経度 38°23'51.46"N 141°25'51.03"E
by jiten4ujp
| 2016-11-18 17:57
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