朝倉氏が滅亡。 |
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2016年 10月 30日
10代孝景(宗滴)の跡を継いだ朝倉義景は、1568年(永禄11年)に第15代将軍足利義昭を奉じて近江に侵攻した織田信長との間で軍事的緊張が高まると、1569年(永禄12年)に対立してきた本願寺と結び対信長戦へ備えた。 <a href="http://time-az.com/main/detail/57459">http://time-az.com/main/detail/57459</a> 1570年(元亀元年)04月越前に侵攻した信長によって、敦賀郡の疋田城,手筒山城,金ケ崎城を落とされ、まさに一乗谷に攻め込まれる直前、妹婿の浅井長政が信長に反旗を翻したことで織田軍は撤退した。窮地を脱した義景は、攻勢に転じるべく朝倉景健を総大将として北近江に軍を送り、06月には浅井軍と共に織田・徳川連合軍と姉川を挟んで戦う(姉川の戦い)が激戦の末敗れた。 1573年(元亀04年)織田軍による小谷城攻めが開始され、浅井長政の要請を受けた義景は、自らが出陣し、江越国境の柳ヶ瀬から木之本の地蔵山(現在の浄信寺)に軍を進めたが、嵐に乗じた織田軍の夜襲を受け朝倉軍は越前へと敗走した。 義景は織田軍の追撃を振り切って一乗谷に帰陣するが、二度にわたる織田軍との敗戦で朝倉氏を見限った家臣達は四散した。義景は朝倉景鏡の勧めに従って僅かの側近と共に大野郡に落ち延び再起を図ろうとするが、景鏡の裏切りにより大野郡の六坊賢松寺で1573年08月20日(元亀04年07月13日)に自刃した。 早くに戦国大名となりながらも一向一揆との戦いに疲弊し、家臣団の組織化、規律化を果たせなかった朝倉氏は、11代義景の死とともに滅び去った。 1575年(天正3年)08月信長は10万余の大軍をもって越前に侵攻し、一乗谷城に楯籠もる一向一揆を制圧した。信長から越前支配を任された柴田勝家は、谷間の要害である一乗谷よりも領国経営に適した平地に北之庄城(現在の福井市)を新たに築き一乗谷城は廃城となった。 こうして越前支配の中心が北之庄に移ったことにより一乗谷の遺跡は破壊されることなく、戦国期の城下町の町並みが完全な形で残る貴重な中世城館跡として、国特別指定史跡となっている。一乗谷城へは朝倉氏館の背後から登ることができ、中腹から山頂に至るまでの至る所に朝倉氏時代の中世城郭の遺構を観ることができる。 一乗谷の緯度、経度 35°59'58.17"N 136°17'44.01"E
by jiten4ujp
| 2016-10-30 23:25
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