天文法華の乱で、延暦寺衆徒が京都の法華一揆を破った。 |
次いで1522年07月23日(大永02年06月20日)には長政らとともに晴元と義絶していた三好元長を和泉の堺南荘に攻め、元長も自刃させた。
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細川晴元の手先となり、晴元の政敵駆除に明け暮れ、自らの政治基盤を盤石なものにしようとしていた一向宗門徒は自らの力を自覚し、摂津・河内・和泉・大和などの畿内各地で蜂起し、在地権力をも掌握する勢いにあった。
そこで細川晴元は、この一向宗の門徒一揆を打倒するため、1532年9月(天文元年08月)に山科本願寺攻撃し、1533年05月03日(天文02年03月29日)の救援にあたり法華宗信徒の力を借りた。本願寺攻めの時は、当時京都の町衆を中心に3〜4000人と言われた法華衆を六角定頼の指導で大動員し、伊丹では、木沢政長指導で洛中21ヶ寺の法華宗信徒を動員し、いずれも勝利した。
万全の包囲網を形成した延暦寺方は1536年08月19日(天文05年07月23日)に京都への侵入を開始した。これに対し法華宗信徒は、1536年5月(天文05年05月)下旬以降、あらかじめ京都の町内に要害の溝を掘り、戦いに備えていた。
「天文法難」の戦いは1536年8月19日(天文05年07月23日)に、六角定頼らの兵を加えた叡山などの旧寺院勢力が京都に侵入したことから本格化した。1536年8月23日(天文05年07月24日)にいたるまで、連日に渡って小競り合いが行われた。この間近江の六角定頼の勢が下京で放火したため、下京の全域と上京の三分の一程が消失した。
法華宗信徒は、21ヵ寺を焼かれた上に、討ち死にした者が3,000人とも1万人とも言われ、完全に敗北した。1536年8月24日(天文05年07月28日)には、最後まで戦った本圀寺が陥落し、生存者の多くは京都を追われ、堺の末寺に逃亡した。
11年後の1547年(天文16年)、法華宗信徒は定頼の斡旋で京都還住を許されたが、兵火を免れた妙伝寺の破却、山門に対する銭一万疋の上納、毎年03月における日吉神社祭礼料足の追納など、三カ条の履行を約束させられた。
この戦いの結果、法華宗信徒は京都での勢力の殆どを失った。以後、町衆や農民・土豪層との共同闘争は不可能となった。