天領であった肥前国彼杵郡浦上村で、最初のキリシタン弾圧。 |
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しかし、証拠不十分で、庄屋による不正事件も発覚し、1795年(寛政6年)に村民が放免になった。
これを浦上一番崩れと言われている。
浦上四番崩れは1867年(慶応3年)に、「私たちは昔からのキリシタンの信仰を守ってきた家でありますので、これからはキリスト教の葬式(埋葬)を行いますからご承知下さい」という口上書を庄屋に届け出た。庄屋は驚いて、これを長崎代官に届けたことが発端であった。これまでの密告による捕縛ではなく、自分たちから積極的に申し出たものであった。その結果、幕府の知るところとなり、1867年07月10日(慶応03年06月09日)、キリシタン114人が、長崎府知事沢宣嘉から出頭令状で呼び出され、備後の福山、長門の萩、石見の津和野に流罪とすることになった。
その中で、仙右衛門以下、国太郎、甚三郎父子ら非人は、津和野へ流罪となった。
1867年06月15日(慶応3年5月13日)、捕らえ方総勢約170名が、あらかじめ作られていた幕府のキリシタン名簿に従い、次々に捕らえていった。
その日捕らえられたキリシタンは約200人でった。
長崎で捕らえられたキリシタンは、小島という牢屋に押し込められ、10月になったころ、桜町の牢に戻され、本格的な拷問が始まった。
和三郎、元助、又市、清四郎、惣市、源八の6人が、拷問に合い、次に、甚三郎ら5人を同じ目にあわせようとした。
残っていた100人あまりの人々は、拷問が怖くなり、責められた6人をはじめ、全員が改宗してしまった。
あとで牢から出され、浦上に帰り、昼も夜も山の中にいて、三日三晩泣いて、信仰を捨てたが、あとで改めて信仰を持っていることを確認し、再認識してもらう「改心もどし」を村の庄屋の玄関に頭を下げて、お願いした。
当時、庄屋は、村の代官のような役目をしていたことから、「改心もどし」ということに、庄屋は驚いた。
かなり、自由なキリシタンが表面化している。
私は、このような宗教が好きである。
その最中に明治維新になり、御前会議で全住民の配流を決定した。ところが、日本に駐在していた外交団や特派員などのキリスト教徒が、それを知り、欧米諸国から抗議が起こり、明治政府は1871年(明治3年)にキリシタンの禁制を排除し、キリシタンの釈放と帰還を行った。これが、日本でのキリスト教禁止が終わりになった。