鎌倉幕府2代将軍源頼家を、入浴中に謀殺。 |
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源頼朝の死により18歳で家督を継いで、鎌倉幕府の2代目征夷大将軍になった源頼家は、従来の習慣を無視した独裁的判断が、御家人たちの反発を招き、頼朝の有力御家人比企氏出身の妻を娶り、比企氏との関係が密になるにつれ、弟の実朝を担ぐ母北条政子の出身母体である北条氏との関係があやしくなり、頼家の後ろ盾である比企氏と、北条氏の対立が起こり、頼家が家督を相続して3月後に、疎外された母方の北条氏を中心に十三人の合議制が敷かれ、頼家が直ちに訴訟を裁断することは停止された。
合議制の設立から半年後、頼朝の代からの優秀な側近侍所長官の梶原景時が、頼家の弟である千幡を将軍に建てようとする陰謀があると頼家に報告する。しかし景時に反撥する御家人66名による景時糾弾連署が頼家に報告された。
景時は頼家に何も弁明せず、所領に下り,謹慎ののち政務への復興を願ったが、頼家はすくうことができず、鎌倉追放となり、京都へ上がる道中で在地の御家人から襲撃され、『吾妻鏡』や、藤原定家の日記『明月記』などによれば、一族もろとも滅亡した。
修善寺の緯度、経度
34°58'17.4"N 138°55'39.2"E
または、
34.9715, 138.927556