米国の商船モリソン号に浦賀奉行が砲撃。 |
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モリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩では一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉したが、漂流民はオランダに依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられて船に帰された後に、空砲で威嚇射撃されたため、断念してマカオに帰港した。
先進的な考えであった蘭学者で、国学者達からは南蛮の学を学ぶ集団「蛮社」と呼ばれていた渡辺崋山は『慎機論』『初稿西洋事情書』『再稿西洋事情書』『諸国建地草図』を著し、高野長英は『戊戌夢物語』『蛮社遭厄小記』を著し、幕府の対外政策を批判したため、国学者鳥居耀蔵が中心になって弾圧し、逮捕されるという事件「蛮社の獄」が1839年(天保10年)に起こっている。
渡辺崋山は、1841年11月11日(天保12年10月11日)に自刃した。享年49。
高野長英は、弘化元年06月30日(弘化元年6月30日)に牢に放火して脱獄し、1850年11月21日(嘉永3年10月30日)に、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害された。享年47。
漂流民の一人『音吉』は、
1819年(文政2年)尾張国知多郡小野浦(現愛知県知多郡美浜町)に生まれる。
1832年(天保3年)宝順丸に乗り組んで鳥羽を出帆、嵐で漂流(14才)。
1834年(天保5年)14人の乗組員のうち生き残った、岩吉(28才)と久吉(17才)と音吉だけが、アメリカ太平洋岸のフラッタ岬に漂着、インディアンに襲われる。イギリス船に救われ、3人はフォートヴァンクーバに連れてこられる。ハドソン湾会社のマクラフリンによってイーグル号でロンドンに送られる。(16才)
1835年(天保6年)ロンドンに着く。ゼネラル・パーマ号でマカオに送られる。(17才)
1836年(天保7年)岩吉、久吉と共にギュツラフに日本語を教え、聖書の日本語訳に協力する。(18才)
1837年(天保8年)アメリカ商人キングのモリソン号に乗せられ日本に向かうが、浦賀と鹿児島で砲撃され帰国出来ず(モリソン号事件)。(19才)
1838年(天保9年)音吉はアメリカへ行く。(20才)
1843年(天保14年)音吉はオトソンと名のり上海のデント商会に就職。(25才)
1849年(嘉永2年)イギリス軍艦マリナー号で浦賀へ行く。(31才)
1854年(安政元年)イギリスのスターリング艦隊の通訳として長崎に来日。(36才)
1862年(文久2年)シンガポールに移住。
1867年(慶応3年)シンガポールで病死。(49才)